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The Da Vinci Codeを読み終わりました。
キリスト教はあまり詳しくありませんし、それにまつわる絵画もよく知らなかったのですが十分楽しめました。歴史かミステリーが好きであればオススメです。
あらすじ
ルーヴル美術館。パリにあるフランス国立美術館で発見された館長ソニエールの死体をきっかけに物語は動き出す。殺害当夜、ソニエールと会う約束をしていたハーヴァード大学教授ラングドンは容疑者として追われるが、館長の孫娘であるソフィーの助けによって警察から逃亡する。二人はソニエールが残した暗号をヒントに、真犯人が求める「聖杯」を探す旅に出る。館長が命を賭けて守った「聖杯」とは一体何なのか。
以下、書評という名の雑文です。
歴史は作り話
「歴史はつねに勝者によって記されるということだ。
ふたつの文化が衝突して、一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。
みずからの大義を強調し、征服した相手を貶める内容のものを。
ナポレオンはこう言っている。
”歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない”と」
「本来、歴史は一方的にしか記述できない」
本作のディービングと同じ考えの人が以前『ワンピース』にもいました。
歴史は勝者によって塗り替えられるとしたら、一体どこに真実の歴史などあるのでしょうか。嘘の歴史を学ぶ事で何を得られるのか、嘘の歴史を火種に喧嘩してどうなるのか、そんな事を考えながら読んでいました。真実が分からないからこそ「歴史は繰り返す」のかもしれません。
歴史を学ぶことは大事だと思いますし、歴史に基づいて政治についても議論するべきだと思っています。ただ今知っている歴史の大半が作り話であると考えれば、韓国や中国ともっと冷静に議論ができて、改憲問題ももう少しマシな議論ができると思います。
反逆者になる
そんな繰り返す歴史とは対照的に、科学は常に(良くも悪くも)進歩してきました。科学の世界では嘘がすぐにバレます。現象や法則に基づいて体系的に整理されているからです。
では科学の始まりはいつなのか、という点に関しては本作ではキリスト教の司教アリンガローサが触れています。
「科学と信仰の融合になんの意味があるのか。
神への信仰をいだく者が偏りなく科学を修められるはずがないし、逆に、信仰にはいかなる物質的な裏付けも必要ない。」
神を信じるものに科学は必要ない、つまり神を信じられなくなったか、神の仕打ちに耐えられなくなった人達が科学を始めたわけです。
『プラネテス』でこの心情をズバッと言った人がいました。
「真理の探究は科学者が自らに課した使命です。
”本物”の神はこの広い宇宙のどこかに隠れ我々の苦しみを傍観している。
いつまでもそれを許しておけるほど私は寛容な人間ではない。」
病気になったら死ぬしかないのはおかしい、
移動手段が徒歩だけなのはおかしい、
暗くなったら何も出来ないのはおかしい、
遠くにいる人と話せないのはおかしい。
これら神への不満が技術の進歩を促進してきたはずでした。
しかし昨今、そういった「神への怒り」とは程遠い技術が増えている気がするのは私だけでしょうか。
・電気、水、食糧はいずれ尽き果てる
・人口が増えれば、1人当たりの使える土地が減り移動・通信も難しくなっていく
・事故で手足を失った人達が今尚苦しい生活を強いられている
などなど、人類全体の問題は明白です。
重要度の高い技術に人員を割いて然るべきですし、そう考える「神への反逆者」が再び増えれば21世紀の産業革命も不可能ではないと信じています。
科学を楽しむ
そんな怒れる反逆者たちも、常に怒っているわけではありません。科学とは本来楽しいもので、その事は本作でも一貫して主張されています。
「ラングドンはそう言って、研究上の大発見をした折によく感じる興奮を味わっていた」
これは大学院や仕事で研究した事がある人間なら誰しも体験したことがあるはずのアレです。『アルジャーノンに花束を』でもチャーリィが短い人生の中でこれを経験しています。
「まどろみかけようとした時、答が閃いた。イルミネーションのように!
あらゆるものが、ぴったりとはまった。それははじめから分かっていたはずのことだった。」
これまで点として捉えていた情報が、ある日突然頭の中で繋がり、一つの像が浮かび上がるような感覚。
まるで星空の中で新しい星座を見つけたかのような感動に陥ります。
ミステリーも科学と似ていて、その事を筆者がよく理解しているのがラストシーンから伝わってきます。見事な「感動」の表現だったと思います。
終わり良ければ全て良し。
極上のミステリー、ごちそうさまです。
では。
2015年8月28日金曜日
2015年8月6日木曜日
【8/6】 戦後70年の今考える事
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本日8月6日は広島で原爆が投下された日で、平和記念式典の一部をテレビで拝見しました。世界平和という言葉が度々出てきた事もあり、今日半日は世界平和の可能性について考えました。
原爆について
初めて原爆について知ったのは小学2年生の時、学校の図書館で読んだ「はだしのゲン」がきっかけでした。
一瞬ピカッと光った直後、街は爆風で破壊され、人々は焼けただれた皮膚をひきずり水を求めたーー想像力の乏しい小学生にとって、非常に鮮烈な絵だった事を強く覚えています。
なんとか熱風から逃れた人々も病気、差別に苦しみ、衣食住の何もかもが保証されない時代をあまりにリアルに描いているため、始めはフィクションとしか思えませんでした。
この広島で起きた惨状を現実に在った事だとしっかり理解したのは、中学の修学旅行で広島に行った時です。同じ記述が現実の写真と共にそこに在り、同じ話を被爆経験者が語って下さりました。
原爆の恐怖・戦争の恐怖を語り継ぎ、二度と同じ悲劇を繰り返さないことこそ肝要である、と言われ、その時は強く同意しました。しかし原爆を保持している国は70年経った今でも存在し、戦争も一向になくなる気配はありません。
もし本気で戦争をなくしたいのであれば、ただ悲劇を語り継ぎ危険性を訴えるだけではなく、もっと戦争のメカニズムについて知り、これまでにない対策を考えるべきなのかもしれません。
そんな事を考えていた折、『永遠のゼロ』の中で面白い口上を見つけたので紹介します。
永遠の0 第九章「カミカゼアタック」
これは百田尚樹著「永遠の0」の中で、特攻要員だった男・武田が若手新聞記者・高山に対して述べた口上の一部です。
「夜郎自大とはこのことだーー。
貴様は正義の味方のつもりか。
私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている。
日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講話条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。
こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。
国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった。
日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小村寿太郎も国民的な非難を浴びた。
反戦を主張したのは徳富蘇峰の国民新聞くらいだった。
その国民新聞もまた焼き討ちされた」
さらに続きます。
「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺だと思っている。
この事件以降、国民の多くは戦争賛美へと進んでいった。
そして起こったのが五・一五事件だ。
侵略路線を収縮し、軍縮に向かいつつある時の政府首脳を、軍部の青年将校たちが殺したのだ。
話せばわかる、という首相を問答無用と撃ち殺したのだ。
これが軍事クーデターでなくて何だ。
ところが多くの新聞社は彼らを英雄と称え、彼らの減刑を主張した。
新聞社に煽られて、減刑嘆願運動は国民運動となり、裁判所に七万を超える嘆願書が寄せられた。
その世論に引きずられるように、首謀者たちには非常に軽い刑が下された。
この異常な減刑が後の二・二六事件を引き起こしたと言われている。
現代においてもまだ二・二六事件の首謀者たちは
『心情において美しく、国を思う心に篤い憂国の士』
と捉えられている向きがある。
いかに当時の世論の影響が強かったかだ。
これ以後、軍部の突出に刃向かえる者はいなくなった。
政治家もジャーナリストもすべてがだ。
この後、日本は軍国主義一色となり、これはいけないと気付いた時には、もう何もかもが遅かったのだ。
しかし軍部をこのような化け物にしたのは、新聞社であり、それに煽られた国民だったのだ」
そして最後、戦後については以下のように述べます。
「戦後多くの新聞が、国民に愛国心を捨てさせるような論陣を張った。
まるで国を愛することは罪であるかのように。
一見、戦前と逆のことを行っているように見えるが、自らを正義と信じ、愚かな国民に教えてやろうという姿勢は、まったく同じだ。
その結果はどうだ。今日、この国ほど、自らの国を軽蔑し、近隣諸国におもねる売国奴的な政治家や文化人を生み出した国はない」
以上が口上の一部です。
もちろん小説なので、全てが真実ではありませんし、全てが正しいとは言いません。しかしこの口上から学べることは多いと思ったので引用させて頂きました。
戦争につながるきっかけの一つ目。
それは、国民が新聞社の表明する「怒り」に煽られてしまうことです。人を統率する際に最も操りやすい人間は、怒っている人間です。
それを知っている新聞社たちは、選挙や事件のたびに巧みに国民の「怒り」を煽ります。一番怖いのがすぐデモ行進に参加するような怒りっぽい人達です。
そうやって煽られた国民をコントロールできなくなってしまった時が一番恐ろしいのだと、そしてそれが原因で戦争が過去に起きていると、上の口上では言っています。
そしてもう一つの戦争へのきっかけ。
それが、「自らを正義と信じ」て他人に「教えてやろうという姿勢」です。先の口上における新聞社も国民も、自分達の考えや行いを「正義」だと信じているため決してひるみません。そのため、自身の「正義」が分からない他人に同調させよう、「教えてやろう」という姿勢になりがちです。
上記二つ以外にも、政治家がまるでダメであればそれが原因で戦争につながるかもしれません。しかし、戦争の原因が国民や新聞社にもある限り、いくら上流の権力者が優秀で誠実な人間になっても戦争はなくならないんじゃないかということです。
新聞が言う事に一々怒らず冷静に聞き、自分の考え方とは違う人の考え方ももう少し真剣に考えるだけで、戦争が起きる確率は下げられるんじゃないか。
こう考えると、結構簡単に出来そうな気がします。けどそんな簡単じゃないと思うのでもう少し考えました。
怒りのコントロール
前述で、戦争予防法として
①怒りをコントロールする
②他人の考え方を尊重する
と綺麗事を並べましたが、実際これは両方ともかなり難しいのでもう少し具体化します。
まず①について。
人って結構些細な事ですぐ怒ります。飲食店でグラスが汚いとか、歩いていて肩がぶつかったとか、子供が言うこと聞かないとか。では人が一番怒る時っていつだろうと想像した時、中々想像つかないかもしれません。
私の場合は、
「理不尽に愛が奪われた時」
です。例えば兄弟を交通事故で失ったり、自分の子供が通り魔に殺されたりって意味です。友達や恋人でも怒ると思いますが、一番怒るのは大切な家族を奪われた時だと思います。
そういう状況で果たして怒りをコントロールできるのか。私はできません。想像するだけで血管キレそうです。そのため、常にそういう状況にならないように考えながら生きる必要があります。
そして常に最悪のケースを想定していれば、大抵の怒りはどうでもよくなります。
次に②について。
他人の考えなんてそうそう分かりません。が、相手が何に対して怒るかを観察し、なぜ怒るかを考えることで相手の立場に立てるのでは、と思ってます。
最後に口上を言った武田の怒りを一つ紹介して終わります。
「軽々しく平和という言葉を持ち出さないで貰いたい」
では。
本日8月6日は広島で原爆が投下された日で、平和記念式典の一部をテレビで拝見しました。世界平和という言葉が度々出てきた事もあり、今日半日は世界平和の可能性について考えました。
原爆について
初めて原爆について知ったのは小学2年生の時、学校の図書館で読んだ「はだしのゲン」がきっかけでした。
一瞬ピカッと光った直後、街は爆風で破壊され、人々は焼けただれた皮膚をひきずり水を求めたーー想像力の乏しい小学生にとって、非常に鮮烈な絵だった事を強く覚えています。
なんとか熱風から逃れた人々も病気、差別に苦しみ、衣食住の何もかもが保証されない時代をあまりにリアルに描いているため、始めはフィクションとしか思えませんでした。
この広島で起きた惨状を現実に在った事だとしっかり理解したのは、中学の修学旅行で広島に行った時です。同じ記述が現実の写真と共にそこに在り、同じ話を被爆経験者が語って下さりました。
原爆の恐怖・戦争の恐怖を語り継ぎ、二度と同じ悲劇を繰り返さないことこそ肝要である、と言われ、その時は強く同意しました。しかし原爆を保持している国は70年経った今でも存在し、戦争も一向になくなる気配はありません。
もし本気で戦争をなくしたいのであれば、ただ悲劇を語り継ぎ危険性を訴えるだけではなく、もっと戦争のメカニズムについて知り、これまでにない対策を考えるべきなのかもしれません。
そんな事を考えていた折、『永遠のゼロ』の中で面白い口上を見つけたので紹介します。
永遠の0 第九章「カミカゼアタック」
これは百田尚樹著「永遠の0」の中で、特攻要員だった男・武田が若手新聞記者・高山に対して述べた口上の一部です。
「夜郎自大とはこのことだーー。
貴様は正義の味方のつもりか。
私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている。
日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講話条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。
こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。
国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった。
日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小村寿太郎も国民的な非難を浴びた。
反戦を主張したのは徳富蘇峰の国民新聞くらいだった。
その国民新聞もまた焼き討ちされた」
さらに続きます。
「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺だと思っている。
この事件以降、国民の多くは戦争賛美へと進んでいった。
そして起こったのが五・一五事件だ。
侵略路線を収縮し、軍縮に向かいつつある時の政府首脳を、軍部の青年将校たちが殺したのだ。
話せばわかる、という首相を問答無用と撃ち殺したのだ。
これが軍事クーデターでなくて何だ。
ところが多くの新聞社は彼らを英雄と称え、彼らの減刑を主張した。
新聞社に煽られて、減刑嘆願運動は国民運動となり、裁判所に七万を超える嘆願書が寄せられた。
その世論に引きずられるように、首謀者たちには非常に軽い刑が下された。
この異常な減刑が後の二・二六事件を引き起こしたと言われている。
現代においてもまだ二・二六事件の首謀者たちは
『心情において美しく、国を思う心に篤い憂国の士』
と捉えられている向きがある。
いかに当時の世論の影響が強かったかだ。
これ以後、軍部の突出に刃向かえる者はいなくなった。
政治家もジャーナリストもすべてがだ。
この後、日本は軍国主義一色となり、これはいけないと気付いた時には、もう何もかもが遅かったのだ。
しかし軍部をこのような化け物にしたのは、新聞社であり、それに煽られた国民だったのだ」
そして最後、戦後については以下のように述べます。
「戦後多くの新聞が、国民に愛国心を捨てさせるような論陣を張った。
まるで国を愛することは罪であるかのように。
一見、戦前と逆のことを行っているように見えるが、自らを正義と信じ、愚かな国民に教えてやろうという姿勢は、まったく同じだ。
その結果はどうだ。今日、この国ほど、自らの国を軽蔑し、近隣諸国におもねる売国奴的な政治家や文化人を生み出した国はない」
以上が口上の一部です。
もちろん小説なので、全てが真実ではありませんし、全てが正しいとは言いません。しかしこの口上から学べることは多いと思ったので引用させて頂きました。
戦争につながるきっかけの一つ目。
それは、国民が新聞社の表明する「怒り」に煽られてしまうことです。人を統率する際に最も操りやすい人間は、怒っている人間です。
それを知っている新聞社たちは、選挙や事件のたびに巧みに国民の「怒り」を煽ります。一番怖いのがすぐデモ行進に参加するような怒りっぽい人達です。
そうやって煽られた国民をコントロールできなくなってしまった時が一番恐ろしいのだと、そしてそれが原因で戦争が過去に起きていると、上の口上では言っています。
そしてもう一つの戦争へのきっかけ。
それが、「自らを正義と信じ」て他人に「教えてやろうという姿勢」です。先の口上における新聞社も国民も、自分達の考えや行いを「正義」だと信じているため決してひるみません。そのため、自身の「正義」が分からない他人に同調させよう、「教えてやろう」という姿勢になりがちです。
上記二つ以外にも、政治家がまるでダメであればそれが原因で戦争につながるかもしれません。しかし、戦争の原因が国民や新聞社にもある限り、いくら上流の権力者が優秀で誠実な人間になっても戦争はなくならないんじゃないかということです。
新聞が言う事に一々怒らず冷静に聞き、自分の考え方とは違う人の考え方ももう少し真剣に考えるだけで、戦争が起きる確率は下げられるんじゃないか。
こう考えると、結構簡単に出来そうな気がします。けどそんな簡単じゃないと思うのでもう少し考えました。
怒りのコントロール
前述で、戦争予防法として
①怒りをコントロールする
②他人の考え方を尊重する
と綺麗事を並べましたが、実際これは両方ともかなり難しいのでもう少し具体化します。
まず①について。
人って結構些細な事ですぐ怒ります。飲食店でグラスが汚いとか、歩いていて肩がぶつかったとか、子供が言うこと聞かないとか。では人が一番怒る時っていつだろうと想像した時、中々想像つかないかもしれません。
私の場合は、
「理不尽に愛が奪われた時」
です。例えば兄弟を交通事故で失ったり、自分の子供が通り魔に殺されたりって意味です。友達や恋人でも怒ると思いますが、一番怒るのは大切な家族を奪われた時だと思います。
そういう状況で果たして怒りをコントロールできるのか。私はできません。想像するだけで血管キレそうです。そのため、常にそういう状況にならないように考えながら生きる必要があります。
そして常に最悪のケースを想定していれば、大抵の怒りはどうでもよくなります。
次に②について。
他人の考えなんてそうそう分かりません。が、相手が何に対して怒るかを観察し、なぜ怒るかを考えることで相手の立場に立てるのでは、と思ってます。
最後に口上を言った武田の怒りを一つ紹介して終わります。
「軽々しく平和という言葉を持ち出さないで貰いたい」
では。
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