2015年11月16日月曜日

人間塾の公開セミナーを聞いて

「悩み揺れながらも、進む人生」
というテーマで大学3~4年生の学生達が議論するという面白イベントを聴いてきました。

主な話のテーマはざっくり分けると

  1. 悩みって何?
  2. 進むというけれどどこからどこへ?
  3. 幸せって何だろう?

といった中々抽象的で難しそうな事でした。
色々と考えさせられましたが、自分の意見をまとめておかないと忘れそうなので(笑)
一個ずつ整理します。


1. 悩みって何?


これは大学3~4年生という事もありほとんど進路の話でした。自分の興味や考え方が出会う人や環境によって揺れ動いてしまうという悩みが多かった印象で、自分の進路をどう選べば良いのかというのは僕も大学3年の時は結構悩みました。当時の僕の興味はエネルギー関連にあり、各発電技術やスマートグリッドの制御アルゴリズムも興味がありましたし、電気自動車の電池やらスマートホームとの連携なんかも面白そうだし、「やりたいこと」で探したらいくらでもありました。

この「進路探し」をしている最中に自分の価値観を揺るがしたのが東日本大震災でした。

この時、たくさんの記事やコメントがメディアに露出し、多くの著名人の意見を見る中で三つのコンテンツが自身の考え方を大きく変えました。




家族を失う事の恐怖をたけしのコメントや東京マグニチュード8.0から教わり、家族や友達を失った子供達が将来の夢を語っているBBCを鑑賞し、自身の両親や兄弟の死を生まれて初めて意識しました。それは病気か、事故か、犯罪や戦争によるものか、あらゆる可能性がありますが私にとって最も恐ろしいのが交通事故でした。家族を失う事ももちろんですが、事故を起こした加害者に対する恨みにとりつかれるだろう事もです。そして交通事故は加害者側も一生苦しみます。


それ以来私の使命は「交通事故をなくす」事になり、進路に悩む事もなくなりました。実はこの決断をした後研究室を変えたり博士課程を目指したりITベンチャーのインターン行ったりと、周りから見れば「揺れまくり」な人生だったに違いありません。しかし私は一度たりとも自分が揺れたとは思っていませんし、悩んだ事もありません。これに関しては例え話で説明します。

まず頂上の見えない塔、あるいは山をイメージします。グレート・スピリッツでもOKです。


(参考:シャーマンキングのグレート・スピリッツ)

その塔ないし山を登る際、大学3年生の時の私は「登りたい道」を探していました。
見通しの良い道なのか、傾斜は緩そうか、道の人通りは多いか、大きい道か、しっかり舗装されているか、適度に良い景色が見える面白そうな道か。そんな事を重視していました。

しかしよくよく考えれば、人間は60億人います。日本人だけでも1億人です。道ならいくらでも開拓済みです。道より問題なのは、「今いる山の途中から他の山には中々行けない」という事です。選ぶべきは道ではなく山だったんです。それに気付いてからは道へのこだわりはなくなりました。常に頂上を見ていれば、道が途中でなくなろうが険しかろうがなんとかなる、と最近思うようになりました。

本日のセミナーで塾長が「悩むだけ無駄」という話をしていましたが、それは道選びの話だけなら大いに共感します。ただ山選びは大いに悩むべき所です。自分の10年、20年を捧げるものなので。


2. 進むというけれどどこからどこへ?


この問いは最近考えることを忘れていたので良い機会でした。セミナーの登壇者たちが「両親が育てあげてくれた所から自立した自分に進みます!」という答えを示していて、確かに自分がやってきたのは両親が作り上げたコミュニティからだという当たり前の事を思い出させてくれました。

ただせっかくこの世に生まれたからには、両親に負けるわけにはいかないな、という事は割と幼少期から思っていました。子供が親より小さいコミュニティで小さな人間になってしまったら一族縮小してしまうので(笑)、親よりちょっとでも大きなコミュニティ形成してちょっと大きい事達成していけられれば前進と呼べるかなと思っています。


3. 幸せって何だろう?


このテーマは中々白熱していました。「幸せを求めることは義務だ!皆が幸せになるべきだ!」という塾長と「いやいや、幸せを強要したらそれ幸せじゃないでしょ。求めるべきは自由でしょ」という登壇者で議論してましたけど、よくよく聴くと同じ考えなんだろうなー、という印象でした。ただ前者はやはり言い過ぎかなと感じたので、ドフラミンゴ思想を用いて反論させてもらいます。

まず塾長の思想はこれですよね。
(参考:鋼の錬金術師の「一は全 全は一」)

一(個人)の幸せは全員の幸せあってのものだし、全員の幸せは一(個人)の幸せあってのもの。
一(個人)が全(他人)の幸せを願うことから一と全の相互作用が始まるから、皆利他的に生きようっていう思想ですよね。

この思想に鋼の錬金術師で初めて触れた時は深く共感しました。が、違和感を感じ始めたのは飲食店のバイト中でした。私が働いていた飲食店にいらっしゃるお客様は兎角

  • 頼んだ飯を残す
  • 店員の所作や調理時間で怒る

彼らを見ていて思い出したのはドフラミンゴが言っていた「価値観の相違」でした。




彼らは金も時間も十分にあり、頼んだ料理も食べられないほど衣食住には困っていないわけです。幸せか不幸かで言えば間違いなく幸せなはずですが、出された飯を不味いと言い、サービスを提供しようと努力する店員に怒りをぶつけます。


この経験で確信したのは、「幸せな人間と不幸な人間は相容れない」という事です。自身を振り返ってみても、「楽あれば苦あり」ということわざの如く、自分の人生の中に楽と苦を見出します。人生良いことばかりじゃない、と誰しもが思っています。他所から見れば贅沢な悩みでも、彼らからすれば一大事なわけです。

では結局幸せって何?という問いの答えはまだ分かりません。が、シャーマンキングで葉が言っていた「楽」が一番幸せに近い状態かもと考えています。サボる意味の楽ではなく、誰も他人を憎まない世界を目指して活動しながらも、自身は決して幸せや不幸にゆれることなく揺らいでいる状態。「中庸」と言うと簡単そうに聞こえますが、難しいです。


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以上、本日のセミナー中の脳内まとめでした。

最後にパリのテロについても触れると、世界的に怒り(負)の流れがどうしても強まってるのがなんとかならんかな、という心境。家族や友人を失ったフランス人が憎しみに支配されるのは致し方ないですが、遠方の地にいる日本人だからこそ冷静にテロ対策をできないものか、テロを起こす側の価値観に近づけないか試していく所存です。

テロの被害を受けた方々のご冥福をお祈りいたします。


nobuto